被爆二世・三世の声

  

 被爆者が高齢化し、体験を語れる人が少なくなる中で、被爆体験を風化させることなく次世代に継承することが大きな課題になっています。そのために、広島の会として4年前から始めた若い世代による被爆体験記の朗読活動に続いて、原爆と戦争展を通じて繋がった被爆二世・三世の方々の第1回の交流会を持ち、それ以降継続して開催してきました。

 2021年3月にフジグラン緑井のギャラリーPassageで開催した第6回「原爆と戦争展」にはたくさんの二世の方が来場され「親からもっと話を聞いておけばよかった」「時間があえば交流会に参加してみたい」という声が聞かれました。

 4月18日(日)には、緑井の原爆と戦争展でご縁ができた被爆二世の男性の参加もえて第4回目の交流会をもち、互いの経験と合わせて今後交流の輪をどう広げていくかについても活発な意見交換がされました。二世・三世の方々の「自分たちになにかできることはないか」という声にこたえて、どのような形なら2世・3世が親族の体験を伝えることが可能か、原爆展運動を軸に二世・三世の繋がりをもっと広げ、お互いの経験を交流するなかで可能な活動の形を見いだしていこうと考えています。当面は、親族の体験や二世・三世としての思い、すでに取り組まれている体験継承活動や朗読活動の経験などを交流して、ゆるやかな繋がりを広げていく予定です。

 


 被爆二世の藤井千鶴氏の証言

 ー亡き母の遺志を継いでー

 

 2021年4月5日に逝去した日高敦子氏の長女である藤井千鶴氏の証言。

 以下は、2021年8月6日に原爆展を成功させる広島の会が広島市内で開催した「被爆者・被爆2世と市民の交流会」での証言をもとに整理したものです。日高敦子氏の被爆証言そのものは広島の会が発行している『広島被爆体験集 第2集』(2019年7月発行)のなかに収められていますので、関心のある方には是非読んで頂きたいと思います。発生補助器を使って被爆証言をしている写真は2020年2月(東広島市西条)のものです。

 

 母は当時9歳で、千田国民学校四年生だったので三次市に疎開していたが、8月4日に広島市の南観音にいる政子伯母のところへ、祖母と従姉妹の芳江ちゃんと一緒に戻ってきていた。芳江ちゃんは自分の母親・常子(ときこ)伯母が住む八丁堀へ行き、母は南観音で8月6日を迎えた。朝、生まれ育った千田町へ散髪に行くのを楽しみにしていた母が千田町の実家へ行く準備をしているときに原爆が投下され、母は“太陽が真っ赤になった”と思った瞬間、落ちてきた家の梁に押し潰された。母は、当時の惨状を絵に描き、娘である私にも原爆が投下される前の当時の日常生活の光景を描かせた【絵参照】。それは、人びとの平和な日常が一発の原爆によって奪われてしまったことの不条理を知ってほしかったからだ。

 

 

 


原爆投下前の家の様子(藤井氏画)

燃え尽きた家の下から出てきた

芳江ちゃんの小さなお骨(日高氏画)


 

 母たちがいた南観音は爆心地から3・5㌔離れていたが、芳江ちゃんの家は爆心地から850㍍の至近距離にあった。8月8日、政子伯母たちが母の従姉妹の家族を探しに焼け野原の市内に向かった。まだ熱くくすぶっている焼け跡につくと、赤ちゃんを抱いた常子(ときこ)伯母が何かを探すようにたっていた。聞くと6日の朝、家は炎に包まれ、常子伯母は潰れた家の下敷きになっている我が子の芳江ちゃんを助けようとしたが一人では助けられなかった。早く帰ろうといっても“この下に芳江がおるんよ!”と叫んで動こうとしない。“あんたが死んだらどうするのか”と周囲に止められ、泣く泣くその場を逃れたという。伯母は我が子を置き去りにしてきたことを悔やみ、後日、焼け跡から出てきた芳江ちゃんの小さな骨を拾って三次へ疎開した。その後、紫斑ができ、髪が抜け、食欲もなくなり、9月8日に生後7ヶ月の子どもを残して34歳の若さで亡くなった。その無念さを想像すると苦しくなってくる。

 母は、おびただしい死体や白骨が散らばる市内を歩いていたとき、袋町の日本銀行広島支店前で防火用水に浸かっていた女性と目があったという。それが9歳の母の脳裏に強く焼き付き、女性の目が“あんただけは私のことを忘れんさんなよ!”と訴えているように見えた、と生前よく話していた。

 母は1999年から被爆体験を語り始め、広島の会では修学旅行生や市内の小学校に出向いて証言活動を精力的におこなった。2001年から甲状腺ガンを患い、計11回の手術や放射線治療をくり返し、2018年に声を失った。それでも発声補助器を使って証言活動を続けた。母の最期の姿は、亡き伯母の最期を彷彿とさせるようだった。毎日吐血し、寝ていたら血が喉に溜まるので、ベッドに腰掛け、頭を下げては血を吐いていた。それは残された体力を振り絞り、鬼気迫るものだった。そのときの母の顔はまるで袋町の防火用水に浸かっていた女性のように"あんただけは私のことを忘れんさんなよ!"という顔だった。私は母が残したものを決して忘れることなく、伝えていきたいと思っている。最後に、母が遺した短歌の一つを紹介したい。これは一〇年ほど前の八月の子どもツアーで語りべをした後の短歌だ。この母の気持ちを皆さんにも繋いでいってほしい。

 

 「原爆を/忘れしときなし/広島の/友の無念を/語り継ぐ夏」

 

東広島市西条で証言する日高氏の写真


瀧口裕子さん(被爆二世)

 2021年6月 被爆二世・三世交流会にて

 

<瀧口裕子氏の証言要旨> 

 

 本日は、私の母である瀧口(旧姓・谷山)悦子の被爆体験を中心に母が遺してくれた手記をもとに話したい。母は6年前に84歳で亡くなった。

 私は10年前から国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で朗読ボランティア活動をしている。その過程で原爆の実相を知る必要を感じ、4年前から被爆体験伝承の研修に参加している。私が伝承する被爆者の方がこの4月に亡くなった。直接被爆者の話を聞くことが大切だと思っている。今日の話が一つのきっかけになれば幸いだ。

 

 母は大正14年生まれで被爆当時は20歳だった。女子挺身隊に所属し宇品の陸軍船舶司令部(通称・暁部隊)で勤務しているときに被爆した。

 広島は、日清戦争から軍都として栄え、輸送・出兵の拠点だった。最近話題の被服支廠で作られた物資も宇品から輸送された。

 爆心地である島病院の上空600mで原爆がさく裂した時、母はそこから約4km離れた宇品で被爆した。母は当時、県庁のあった市内中心部水主町で両親と3人で暮らしており、当日も朝7時頃の電車にのって宇品の職場へ向かった。原爆が投下された時、爆心地周辺の地表の温度は3千度から4千度になった。鉄の溶ける温度が1500度であることからしても、大変な高温だった。幸い、母は爆心地から離れた宇品にいたため火傷はしていなかった。

 母の当時の記憶は錯綜しているようで、母の体験記には「宇品で被爆した」ものと「金輪島で被爆した」ものがある。金輪島は宇品港の東約1キロにある島で暁部隊の拠点だった。いずれにしても母は勤務先の暁部隊があった宇品付近で被爆したことは確かだ。

 母は、原爆投下後に上官の指示で被災者の手当に当たったが、被災者は焼けただれて裸の状態であり、男女の区別もつかないひどい状態だった。その後、宇品港から4キロ離れた似島に被爆者を運ぶことになり、母らも被爆者の手当のため同行した。船で似島に向かう途中振り返ると市内は火の海だった。市内にいる家族のことを思いながら任務についた。似島には検疫所があり医薬品等があったことが、似島が救護所になった背景だったようだ。似島には20日間で約1万人の被爆者が運ばれ亡くなった。金輪島にも500人以上が運ばれ亡くなった。その時の体験のためだと思われるが、母を一度「似島に行っておいしい魚料理を食べよう」と誘ったところ、母は「似島には二度と行かない。おいしい魚なんてとんでもない」と断ったことがあった。

 似島の救護所で母が見た光景は、異様な臭い、大変不気味なうめき声、蝋燭の火のもとにゴザに寝かされている見る影もない痛々しい姿の人々だった。「水を絶対に与えてはいけない」と命令を受けていたが、焼けただれた男子中学生が母親に水を求める姿を見て、どこが口かもわからないなかで、布に水を含ませて与えざるを得なかった。その中学生は、その後「お母さんありがとう」と言って亡くなった。ほかにも「早く火を消して」と叫びながら亡くなった男子中学生もいて、母は「泣くまいとすればする程、涙があふれて仕方なかった」と書いている。異様な臭いに母は身体が硬直してしまったそうだ。あたりには死体があふれて放置されており、治療をするにも赤チンという薬品しかなかった。

 似島に行ってから3日目になって、母は父親の生存の知らせを受け、父がいる広島市役所へ向かうことになった。その途中で8月6日の早朝とは様変わりした広島市内の様子を見た。多数の死者、全身火傷で横たわりうらめしそうにこちらを見ている人、頭のない子どもを抱いている母親、死んだ子どもを抱いて大声で叫びながら走り回る母親、黒焦げの電車、たくさんの死体が浮かぶ川の様子など、その様子は悲惨そのものだった。市役所に近い日赤病院でも死体が焼かれている臭いがしていた。母はその後、市役所で父と出会い、抱き合って生存を喜び合った。

 母はその時の被爆のためか、私を産んでからも病弱だった。白血球減少症で特定認定患者の被爆者手帳を所持していた。私は昭和29年生まれだが、私が産まれる時に母は大出血し、決死の覚悟で私を産んでくれた。その母は90歳まで生きてくれた。身体は弱かったが精神力は強かった。

 母は一度だけ私の息子が小学生のとき、学校の平和学習で頼まれて、孫と同級生に被爆体験を話したが、体験を語ったのはそれだけだ。

 母は平成27年に亡くなった。母の死因は腸閉塞だったが、亡くなる1か月前からは何も食べられず、口の中は出血が続き血だらけで、腸の溶解した粘液便がずっと出ている状態だった。被爆70年後のこれらのことが放射線の影響であると考えると怖い。

 

最後に、母方の祖父母と叔父のことに触れる。

 

 祖父(谷山源睦)は、原爆が落ちた時、市役所で机に座って部下からの報告を受けていたが、とっさに机の下に入りそのまま気を失った。気がつくと、その部下は爆風に飛ばされて亡くなっていた。私が幼稚園児の時に祖父は原爆症で亡くなった(昭和34年)が、それまでの2年8ヶ月寝たきりだった。寝ていた場所は亡くなってから見てみると、ぼろぼろに朽ちていた。

 

 祖母(谷山朝子)は水主町で被爆し、昭和23年1月に58歳で亡くなった。亡くなった時、祖母の衣類や布団は茶褐色になり、ぼろぼろに朽ちていた

 

 叔父(谷山幸壮)は当時25歳で、爆心地から800m弱のところで被爆し、8月14日に亡くなった。身体に刺さったガラスの破片を抜くと、そこがザクロのようにさけたそうだ。顔中が焼けただれていたと聞いた。